1635年、小笠原玄也・みや一家は座敷牢での50日間、殉教に向かい静かに身の回り、遺品の整理をし、お世話になった人々への手紙を書いた。
玄也9通、みや4通、子のまり1通、くり1通(全15通)それを、 みやの従兄弟の家老・加賀山主馬可政(かがやま しゅめよしまさ)に託した。
でも加賀山可政主馬 は、この遺書を、宛名の人々に渡さず、封をしたまま4年間保存、その後熊本城主細川忠利に渡した。
細川忠利もこの遺書を、見ずに保管した。誰もがその中身を読む事を恐れたのだろうか。または玄也一家の心情にまで思いを馳せる心の余裕はなかった、禁教の時代だった。そこに触れたくはなかったのかもしれない。とにかく遺書は誰にも見られることなく、深く隠蔽された。
その後小笠原玄也みや一家の記憶は人々の記憶から消え、彼らを知る人はいなくなり、200年近く忘れ去られた。
1818年頃、花岡山の自然石に『加賀山隼人正藤原興良息女墓』(加賀山隼人の長女マリアみやの墓)と彫られている墓碑が偶然にも発見され、加賀山家の子孫の関心を呼び起こした。
1830年、熊本藩校・時習館記録局の安田貞方が、小笠原玄也の遺書の封を開いて書き写した。遺書が書かれてから195年後のことだった。しかしまた、この文書は深く眠る。
1877年、徳川の時代は終わり細川藩は、熊本県に変わり熊本城は西南の役の激戦により焼け落ちた。
242年のあいだ保管されていた『小笠原玄也の遺書』の原本もここで永久に失われてしまった。
1923年時は大正、安田貞方の『遺書の写し』が発見された。保管され残っていたのだ。
1994年、平成6年それはやっと光のもとに置かれる。私たちがを見る事ができるようになったのだ。解読が難しいにもかかわらず、現代語に訳され、熊本市史資料編纂作業により編纂された。現在は『新熊本市史・資料編第三巻・近世一』(熊本大学図書館蔵)
以下小笠原玄也の遺書
小笠原玄也より 忠兵衛殿へ
その後は あなたの御様子も承知せずに、心許なく思っています。御無事でございますか。久しく御様子も分からないので、朝暮れに案じております。 こちらは 姉、備前殿、宮内殿、いずれも御無事でございます。御安心下さい。忠兵衛殿、又御子達、いずれも御息災でございますか、受け承りたく思っています。
さて 私達の事、右の方々に暇乞いを、おおかた済ませましたので、あなたをお訪ねして、いろいろ御話ししたいと内々に思っていましたが、少し差し支えまして、今になり、お訪ねできないうちに、今度きりしたん事(キリシタン摘発)が、またまた起こりまして、私達また子供、皆一緒に果てる(殉教する)ことになりました。
命ある内に、今一度御目にかかり御話ししたいと思っていましたが、このように果てること、残念なことは筆にも尽くしがたいことです。いろいろ心に思うことも叶わないのが、浮き世(この世)の習いとはいえ、御目にかかることなく、御残り多いことです。何か形見に差し上げたいと思いますが、久しく浪人をしていては仕方がありません。この硯箱は私達が普段使っているものですが差し上げます。私達と思い御覧下さい。心差しまででございます。かしく
寛永十二年・一六三五年
忠兵衛殿
小笠原玄也
⭐️熊本大学ホームページより
細川家最後のキリシタン重臣である加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に関する一次史料を発見https://www.kumamoto-u.ac.jp/whatsnew/zinbun/20210202
⭐️高田重孝著:小笠原玄也と加賀山隼人の殉教
参考文献にさせていただきました。 https://note.com/shigetaka_takada/n/n7cc5db82e61a
<cocoのひとりごと>
この手紙、私も見に行きたいけど!本当に見れるのかなぁ〜〜〜!!
その時は分からなくても、時がくればわかる事がある。消え去ってしまったようでも、
神の時が来れば明らかになる。
歴史は不思議。History(彼の物語)とは神様の物語なんだ。とにかく神様はすごい!
いつまでも残るものは信仰と希望と愛。そのなかで最も大いなるものは愛です。
塩屋町の田中兵庫邸の座敷牢あたり(現在塩屋町という住所は消え熊本中央郵便局が立っている)