cafecoco’s blog 熊本暮らしとキリシタン

遥か遠くに阿蘇の山並みが見える我が家で、トイプードルと暮らしています。でももうすぐ引越し。今のうちに九州がたくさん見たい!行きたい!出会いたい!特にキリシタン関連史跡を巡る私の備忘録です。よければご同行しませんか?

細川興秋の物語

今回の主人公は細川興秋です。
興秋は、熊本城主細川忠利の兄、もちろん細川ガラシャの子、本当なら細川忠興の跡取りとしては忠利よりも上位。けれども若くして果てたといわれる。
興秋の死に関して諸説のストーリーがあって、歴史の面白さや悲哀を感じてしまう(*'▽'*)(◞‸◟)

1583年、細川興秋は、母細川ガラシャ(当時は細川玉子)が幽閉されていた時に産まれたという。

1578年、玉子は15歳にして細川忠興に嫁いだ。美しい花嫁だったことだろう。
翌年には長女が、2年後には長男忠隆が産まれた。

1582年、玉子が19歳の時事件は起きた。実の父明智光秀が、織田信長に謀反を起こした。本能寺の変だ。光秀は三日で打たれ、明智一族は「謀反人の一族」として刑に服し運命を共にした。
けれども玉子だけがその命が助けられたのだ。忠興が玉子と離縁することはせず、1584年までの2年間彼女を京都丹後国の深い山奥に匿ったのだ。
匿ったとはいえ、そこでの幽閉生活は玉子にとって不安と孤独との戦いだったろう。

1583年、この幽閉生活の中で産まれたのが、興秋だった。不遇な玉子にとって赤ちゃんの興秋は慰めの存在となったと思う。山里での幽閉生活にはキリシタンの清原マリア(公家の清原枝賢の娘)などの侍女達も共にいた。

1584年、母子は大阪城下の忠興の元へと戻ることができた。信長に代わって覇権を握った秀吉が、ガラシャ達が大阪城下へ戻ることを勧めてくれたのだという。

1587年、玉子は洗礼をうけ、細川ガラシャは新しい人生を歩きはじめる。まだ幼かった興秋も洗礼をうける。

1594年、興秋が11歳の時、叔父細川興元(忠興の弟)の養子になった。興元にはなかなか子ができなかったのだそうだ。
後から興元は、ガラシャと興秋の洗礼を知って、自分も関心を抱き、キリスト教の教えを学んでいったという。ディエゴ加賀山隼人や高山右近の勧めもあり、興元は洗礼を受けてキリシタンとなった。

1600年、興秋17歳の時、関ヶ原の戦いは起きた。実父忠興や兄忠隆と一緒に参戦し活躍したようだ。

同じ1600年、実父忠興はその戦功によって豊前国豊後国に移封された。栄転だった。

1601年、養父興元が出奔してしまう(兄忠興との不仲説?)。興元の後継として興秋が小倉城代を任された。

1605年、もともと弟の忠利は徳川氏の江戸人質だったが、徳川に気に入られ細川の嫡男に使命された。そしてその身代わり人質として、興秋は江戸に向かうことになった。でも途中で出奔してしまったのだ。
その後、京都の祖父の幽斎を頼って暮らした。幽斎の元には養父の興元(1601年出奔)や、長兄の忠隆(廃嫡)たちもいて、共に暮らした。

1614年、大坂の陣で豊臣に味方する。豊臣が負けたので、徳川についた実父忠興は、息子興秋に切腹を命じる。徳川家康から赦免の話があったが、忠興がそれを断ったという説もある。こうして興秋は細川家から断たれたのだった。
ところが、、、
本当に興秋はこの時に切腹したのか?本当に命を落としたのだろうか?
実はいくつかの説があり、またその証拠と言えるものも出てきているらしいのだ。
だからそのもう一つの物語を次に投稿してみたい。

*cocoのひとりごと*
細川家は、日本の名門一家。けれども光のあたる、その名を天下に響かせた人々と、その光のゆえに影に追いやられてしまった人々もいたんだなぁ〜っと感じます。明暗を分けたものってなんだったのかな。。。世渡り上手か下手かということかな。

どちらが幸せだったかな。。。と考えてしまった。